支那の男色

支那は男色の本場で、伝粉薫香、媚を同性に売るウルニングUrningとその色を買ふペデラストPaederstとは今に至るも頗る多い。我国に於ては天保十三年の風俗革新を最後として、蔭間色子といはれてゐた男娼は殆どその跡を絶つて了つたが、支那に於ては最近に至る迄も花京に相公(シアンコン)といへる男娼が公許されてゐた。

抑々支那にては夙に唐虞三代の頃より男色の行はれてゐたことは『尚書』に頑童の名の見えてるるのに徴しても明かで、今より五千余年前の大昔から男色が行はれてゐた。衛の霊公が少年瀰子瑕を寵し、漢の高祖が籍儒を愛し、漢武帝が李延年を寵し、唐には蘇東坡が李節か慕つたことなどは史上有名なる事実であるが、殊に宋の時代に至て男色の流行すること甚しく、そのため夫婦離別の悲劇の起つたことも尠く無い。夐々情史には情外篇もあつてその条目三十九の多きに亙り、就中、愈太夫の擬作の疏には『奏二上帝一欲乙使レ童子干二後庭一誕育上可甲レ廃二婦人一』とある。支那にては男色に種々の異名があつて、『石点頭巻」の記事に徴すれば、北辺人は炒茄々、南方人は打蓬々、江西人は防火盆、蘇州人は竭先生、慈谿人は戲蝦蟆と呼ぶとあり、同書に『?(さんずいに章)州詞訟十件事到有二九件一、是為二鶏姦素一』とあるが、此等の事実によるも男色の支那に広く伝搬せることが推測せられる。

しかし支那に於て売笑を専業とせる男娼の流行し一廓を生ずるに至つたのは、明の喜宗帝の時代である。即ち北京の都には、花柳街といへる娼婦の游廓の他に胡同巷といへる男娼の遊廓が出来。前者はその門上の額に不夜宮と書して幾多の美女を集め、後者の門城には長春苑の顔をかゝげ媚を売る美少年を収容して客を招いた。喜宗帝は長春苑より少弥といへる美少年を召し、不夜宮よりは娼婦宝施を召して友右に侍せしめ、六宮の粉黛をば顔色なからしめた。宝施は帝に男色を遠ざけんことを奏し、少弥は女色の害を説いて之を退けんことを奏したと云ふ挿話もあった。

売笑専門の男色相公は清時代の末期までも北京の都にあつて公然色を売つてゐたが、併し此他に男色を副業として皇族や大臣の寵幸を得た者は年少の俳優であつた。一代の名優とうたはれた年少俳優揚月楼と清朝の皇族摂政王との関係などは能く世に知られてゐる。支那の俳優で、弱冠の頃よりその名を売り出した者の多くは貴顕紳士の寵を受けたもので、我国にもその名を知られてゐる花形俳優の随一梅蘭芳の如きも、その年少時代には、我国の昔にあつた色子や蔭間と同様な所為をして、金持ちのペデラストの鼻毛を算んだものである。

清朝が倒れて中華民国となつてから、相公の如き男娼は禁止せられたが、年少俳優の売色は今に至るも依然として止まない。