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男娼は元禄時代より流行し。宝暦、明和、安永、天明の時代に至つて最も盛況をきはめたもので、明和版の『菊の園』に依りますと、江戸では堺町、木挽町、湯屋、芝神明前、その他、併せて十個所に二百三十人の男娼がありました、又た『疑問録』には芳町だけでも百人余もあつたと記してあります。京都では宮川町に八十余人、大阪の阪町には約五十人の蔭間がゐたとのことです。宝暦版の『風俗七游談』に江戸に於ける男娼を評して『先づ舞台子を上品とす。芳町之に次ぐ、芝の神明、天神湯島は其次なり、赤城市ヶ谷はその下なり、浅草馬道、本所回向院を下品とす』とあります。男娼の最盛期は安永天明の頃で『江戸男色細見序』に『堺町木挽町には四季折々の番附ありて世の人普ねく有り難かれども、恨むらくは此道の盛んなことを知らざる愚疾の凡夫もあらんかと云々』とあり、『志道軒伝』にも『木挽町に引かるゝ客は身代は大鋸屑の如く、神明参りの帰りの足は、本地垂跡の両道になづむ、湯島の二階は千里の目をきはめ、英町の向側は隣よりもまだ近し、よごれをふくかやば町、すか眼もまじる神田の明神外になければ市ヶ谷の八幡前、天神のあたり近き室咲の梅手折らんと、麹町に寝るを楽む云々』とあつて、男娼巣窟地を挙げ、その流行の有様をほのめかしてあります。