元禄前及元禄頃の蔭間は、若衆髷に大極な派手な振袖を着たもので『男色大鑑』にその扮装を記して『玉縁笠に浅黄紐の仕出し、重髪の色深く、あさ顔染の大振り袖、ぬき絞の大小、左手の山吹の花をかざして、しづかに豊なること、人間とは思はれず』とあります。その上にも、紅色の二布をつけたり、櫛をさしたりしたのでしたが、明和以来より純然たる女装をするやうになつたのでした。『嬉游笑覧』に『もと髪は若衆なりしも、後には鬢を出だし、やがて鬢をも女の如くにして、今は衣類までも全く女の形状なり云々』とあります。深川の芸者屋の抱へ芸者が若衆髷に結ひ羽織を著て男名を名乗り、蔭間の向ふを張ったのは、まだ蔭間が女装しなかった時代に起つたことです。蔭間が外出する時、羽織を著て編笠をかぶつたことは「嬉游笑覧』にも記してあります。その風を真似て深川の芸者が羽織を着又た男名をつけて蔭間の向ふを張つたのでしやう。つまり彼等の女装しなかつた迄は髮は若衆髷を結ひ、茶屋へ行く時に羽織をかぶつたので、深川の芸者などが蔭間風を見倣ったのであることは明かであります。