元禄前の頃から明和に至る迄は、男娼は幾分か女性の扮装を真似ても全然化するに至らなかつた。そして寛文以来男娼が持てはやされるやうになつたので、遊女や私娼のうちには男娼の若衆姿を真似て、後庭をも売るものが現はれるやりになりました。所謂若衆女郎といふのが是です。延宝版の『色道大鑑』に記する処に依りますと、この若衆女郎なるものが始めて出来たのは、寛文九年頃で、大阪の新町の富士屋抱への娼妓千之助といふものに初まり、奈良、伏見の方にまで、若衆女郎が出来るやうになつて、男色好きの客をも引き入れたとあります。江戸の深川芸者が羽織を著たのも男娼の風に倣つたもので、『守貞漫稿』に『昔は稚妓を男扮させて羽織を著せたり。故に今も名を鶴次。竹八等を以てす。天保の頃も十四五以下の妓には羽織を著せて出す。これを豆芸者といふ』とあります。