京都の宮川町では子供屋と云つてゐたことは元禄十四年版の『傾城色三味線』に『宮川町の子供屋の主云々』とあり、又た江戸のやうに蔭間と称せずして若衆とも呼んでゐたことは『暇の多い若衆に、枕かへしの扇の曲云々』とあるを見ても知れます。大阪では道頓堀の阪町にあったもので若衆屋或は若衆店と称へ、行燈に抱への男娼の名を列書して表格子に懸けたのであります。宝暦七年版の『絵本小倉の塵』には大阪々町の若衆店の国図を掲げてありますが、その軒行燈には、中村梅二郎、市川幾世、嵐菊之丞、瀬川染吉、芳沢松太郎といふやうな俳優名を署してあり、又た『守貞漫稿』にも関東屋といふ若衆屋の軒行燈に書いた男娼の名を挙げてありますが、これも矢張り悉く俳優の名で、中村力弥、阪東亀菊、嵐吉弥、阪京鶴三、嵐由之助などゝあります。それは京阪の男娼は必ず俳優の弟子となり、その師匠の家号を名乗るがためでした。