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それでは例によつて私から始めます。男娼の起りは、舞台子、即ち劇場の舞台に立つ女形の美少年で、その中の高級男娼を太夫と称して居りましたが、元禄時代の前頃よりこの外に『蔭間』『飛子』と云ふ男娼も現はれてきたのであります。元禄版の『人倫訓蒙図彙』に『狂言役者、男子を遊女屋の女を抱へる如くに、抱へ置て芸を仕入れるなり。十四五になればそれぞれ色つくり芝居へ出し、芸よく名を取れば、我が門口に大筆にて誰が宿々と名字を記るし、夜には戸口に掛行燈に名を書きつけおくなり。まだ舞台へ出ぬを蔭間と云ふ。他国をめぐるを飛子といふなり』と記してあります。要するに男娼に、舞台子、蔭間及飛子の三種が出来たので、蔭間は舞台へ出ぬ純粋の男娼であり、飛子は田舎まわりをする低級の男娼であります。蔭間といふ名称に就ては『豊茶子雑誌』に『舞台にも出動なく、内にて客を迎へし故に蔭子と唱へ、蔭にて逢ふ故に蔭間とは呼び伝へしならんか』と記してあります。万治寛文以来次第に盛んとなつた男娼は元禄に至て益々盛況となり、江戸では堺町、稱宜町、大阪では道頓堀、京都では宮川町が男娼の巣窟で、之を抱へる青楼をば、子供茶屋、蔭間茶屋、若衆茶屋と称したのであります。この他にも『男色大鑑』には、京都に石坦町の名も見え、『雨夜三杯機嫌』には、江戸に浅草、神明、目黒、目白などの名も見えますから、元禄の頃には是等の地にも男娼が散在してゐたことが分ります。江戸では蔭間茶屋といひ、その店に客を迎へ又は他の茶屋へ蔭間を送りこんだが、京都では子供屋又は若衆茶屋と称へ、江戸のやうに客を迎へず遊女の茶屋で男娼を迎へることになつてゐました。『守貞漫稿』に『蔭間は江戸にて男色の名とし、京阪にては若衆と云ふなれども昔は芝居へ出でざるものを蔭間といひしなり。(中略)京阪共に遊女屋と同じ所に若衆二三戸づゝありて将に若衆茶屋と云はなく、遊女の茶屋にて之を迎へしなり』とあります……