野郎歌舞伎役者が売色本位となつたのは承応以来で、それより寛文にかけて次第に盛んとなり、遊女同様に看做されるやうになりましたがため、吉原や島原に遊女細見記の出たのと同様に万治二年には『野郎蟲』、寛文二年には『剥野老』といふやうな野郎細見記が出るやうになつたのですが、併し元禄の頃になりましても、第一流の男娼ある太夫子は、まだ遊女ほどに多くなかつた様です。『野郎三座記(貞享元年版)『簔張草』(元禄四年)『姿記評林』等に記せる太夫子を算へてみると、三十人内外に、過ぎません。承応から寛文に亙つて美少年の噂の高かつた太夫子は、吉弥結ひに名残した上村吉弥と玉川千之丞とでした。