だが、万治から寛文にかけて最早や彼等は殆ど純然たる男娼に化して了つたと見えて世聞から遊女同様に取り扱はれて居ります。寛文二年に出た野郎評判記『剥野老』を見ますと、阪田市之丞と云ふ野郎を評して『顔うつくしく、眼もとに殺す所あり』とか、山本勘太郎を評して『口つきしほらしくて寝覚の床の睦には、あめが下の水の声も山ほとゝぎすと共に啼き明かすらん』とか、藤浪求女を評して『蓮の玉の肌、いかなる人をや占めて寝ぬらん』とか書いてあります。容姿の賛美以外に、バイシュラーフの点にまで及んで居るのを見ましても、彼等が、遊女同様に看做されるやうになつたことが分ります。だから俳優としての技芸は拙劣でも容貌さへ美しく性的技巧もうまければ、大に持てたのですね。