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さて歌舞伎役者が男娼に堕したのは何時頃からのことかと考証してみますと、貞享四年版の『男色十寸鏡』に『男色を売り侍るは中年頃より起りけろとかや。三十余年已前までは歌舞伎若衆も今の風俗とは変りて意気地を第一とし、親方金剛もそして此道にて銀に目をかけず』とあります。この書物は貞享四年版です故、三十余年已前といへば明暦万治の頃で、此頃までは花代の定めのなかつたことが右の記事で明かであります。そして『意気地を第一とし、銀に目をかけず』とありますから、意気の相投じた同性だけに男色関係を結んだゞけで、普通に行はれた男色と同様であつたことも分ります。承応二年版の『犬つれづれ』の中に彼等の心持ちを唄つた文句があります『たゞおのづから何となく、物のあはれを知る人は、一夜なりとも言ひよりて、枕ならぶるうたゝねの、後のあしたは玉づさに、思ひもかけぬ心ばへ、夢かうつゝかとばかりに、おぼつかなさにあさあさと、書きとゞめたる水茎の、置かれぬまゝにとれはて、悔ゆるばかりにあらんこそ、残り多くちありたけれ』とあつて、純然たる同性愛てす。それが何時しか男娼に化して『江戸名所記』にも記せるが如く『今の歌舞伎若衆は名さへ女形として総体みな傾城の風あり、人をたぶらかし物を取るを本意とす』とあるやうに売色本位に変化したのであります。若衆歌舞伎時代には男色関係を結んでも売色専門では無かつのが、野郎歌舞伎になつてから次第に売色本位の傾向に移り技芸は拙劣でも容貌さへ義しければ大に売れるやうになつたのてあります。