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前述べました如く、若衆歌舞伎が野郎歌舞伎となり、若衆の名が野郎に改められてから、始めて男娼に堕するに至つたので、その謂はれを申しますと、幕府の当局者は美少年の容色を奪つて男色の弊を絶つには、その前髪を剃らせて没趣味な野郎頭にさせるのに限ると思つたものと見え、承応二年一且禁止した若衆歌舞伎をば物真似狂言の名の下に再許した時、強制的に少年俳優を野郎頭にさせました。処が俳優の方ては、その剃り立て頭の無風流没趣味を掩はんがため、置き手拭ひといつて、三尺詐の色絹を鉢巻のやうに額に当て、その一端を長頭巾の如く後方へ下げて舞台に現はれるやうになり容貌が一層引立ちました。承応の末、万治の始め頃からはこの置手拭の代りに前髪の所へ附け髪をして舞台に出ることになつたので、幕府当局者は寛文四年に至て之を禁じました。そのため今度は黒い頭巾を前額部にあてることになつたのですが、天和の頃から、四角な絹の四隅に錘をつけて前額に載せるやうになり、元禄に入つてよりは、その地を縮緬にして色を紫にするやうになりましたので。却つて償美の趣きを益々添へ男色の弊風をいよいよ増長させました。所調『野郎帽子』といふのは紫ちりめんの額置まで、近松の『心中天之網島』の道行文の初に『走り書き、謡の本は近衛流、野郎帽子は若紫云々』とうたはれて居ります……。