僧侶間には男色が盛んに行はれて居りましたから、遂には若い僧侶で無い者でも凡て男色の被愛者をば一般に若衆と称することになつたのであらうと思はれます。大永年代の頃に出た『宗長手記』に『今日の若衆、いづれありけん、旅寝を訪ひ、やがて帰りし朝、言ひつかはしつ。思はずも葦のかりねのせゞの浪、しきすてられし名残なしやは』とありますが、これは美しい少年のことを若衆と呼んだものでせう。又た永正十年の『閑吟集』に『我は讃岐のつるわのもの。阿波の若衆に肌ふれて云々』とありますが、この阿波若衆は阿波の美少年を指したので、最早や若い僧衆の謂ひでは無からうと考へられます。室町時代より既に男色の被愛者たる美少年を若衆と称するやうになつたことが是等の記事に徴して明かであります。