若衆歌舞伎の禁止せられた原因動機には種々の説があります。『徳川実記』には、承応元年六月大阪城定番の保科弾正忠貞の宅で、松平隼人正と植村帯刀とが若衆のことで争論したがためであるやうに記るされてあり、伊原青々園氏の『日本演劇史』には江戸町奉行の石谷将監が或家に招かれた時、その坐席に美しい小姓が相手をなし、動作進退が悧発なので、将監は傍に居る客に、彼は何物の倅かと問ふた処が、彼の若者は堺町の若衆歌舞伎のものであるとの答に、いよいよ若衆歌舞伎の弊害あることを語つたといひ、又は某侯の夫人が俳優と通じて共に情死を企てたこともあつたので遂に幕府は若衆歌舞伎を禁止することになつたと記してあります。いづれの説が本当か明かでありませんが、しかし、兎に角、若衆歌舞伎の禁止されたのは、その美少年であるがために都下の風俗を乱したがためでありました。この若衆歌舞伎がその翌年『物真似狂言尽』といふ名の下に再許せらるゝことになつたのは劇場関係者の再三の嘆願の結果であつたのです。併し幕府当局者は、美少年の容色を奪ふがためにその前髪を剃らしめて野郎頭となし、且つ野郎と改称せしめたのですが、これが却つて反対の結果を招致して益々男色の弊風を増長せる原因となりました。その事に就いては、いづれ又た後にお話し致しましやう。