世人は江戸時代の男娼の起源をば若衆歌舞伎に帰して居るやうですが、私の観る処では若衆歌舞伎が禁止されて野郎歌舞伎に改まつてからのことであります。もつとも若衆歌舞伎の美少年は同性愛を好む僧侶や武士の相手となりましたが、併し別に金銭及其他の物質的の報酬を要求することはなく、随つて揚代の定めもなかつたので、未だ男娼といふ程度にまでは堕落して居らなかつたのです。それは西鶴の書いた『男色大艦』を見れば明かでありますから、その一節を朗読いたしませう。『その頃までは昼の芸して夜勤めといふこともなく、招けばたよりて酒事にて暮らし執心かくれば世間向きの若道の如く、その人に念ごるなれど誰れ咎むるものもなし。太夫元にも欲を知らず、物にもならぬ客を深うも持つてなし、その年の暮に丹後鰤一本に塗樽に入りし酒三升、盆前なれば三輪素麺十把もらひて、これにも礼状をつかしける云々』……。『世間向きの若道』と書いてあるやうに、所謂意気投合し肝胆相照るすものに対して身をまかせた許りで決して男色其者を売つたのではありません。若衆歌舞伎は都下の風俗を乱したと云へ、未だ男娼に堕落してゐなかつたことは『男色大鑑』の記事に徴して明かであります。