以上は、私の勝手に分類した女嫌ひの種類であるが、さて茲に吾国近古の雑書随筆の中から女嫌ひの若干例を挙げて見よう。
『賊り小田巻』に曰く、―志道軒は女と出家とが嫌ひにて、婦人出家の中、来りて聞く人に交り居れば、段々と当て口をいひ出して、後は居堪らぬやうになる故、彼が辻には婦人坊主来らずと。
『梧窯漫筆拾遺』に曰く、―亀田鵬斉の語りし備前の僧士井上嘉膳は、婦女を悪みて一度不犯なり。姉に逢ふにも一間を隔てゝ尊敬せり。これは非常の行なれども、世人好色の戒ともなるべし。婦女を悪みけるは、後梁の先主蕭登に似たり。一生不犯なるは唐の陽城の兄弟に同じ。
『隨登録』に曰く、―尾張人岡材雲八者、性悪二婦人一、衣服飲食、猶婦女之所レ製者則、知二其臭一而不レ欲レ衣二食之一云々。
『甲子夜話』に曰く、―信州を領せる或侯の婦女を殊更に嫌ひて、其の匂ひをも厭ふと云ふ。それ故、奥方もあれど対面せらるゝまでにて、各別に離牀し、すべて女は近づき寄せぬとぞ。又領邑に鯨漁を業として富める者あり。女嫌ひにて、下女など厨下に奔走するの外、身近くに女なし、然れども妻なしと云ひては吝嗇の譏を受くとて、京都又は近領富家の娘を妻に迎ふるに、もとより別居して、たまさかに呼び見るのみの体ゆゑ、妻も倦み果て遂に別れ去るとぞ。
以上の諸例は果して性欲の異常に因るか、或は神経質性の癖習、潔癖に因るか、固より明かで無いが、兎に角、女嫌ひの稀有で無いことは此等の実例に徴しても明かである。現代に於ける有名の人では、西本願寺の前法主大谷光瑞氏が女色を好まず、本願寺に奉仕してゐた奥女中や其他の女子を殆と解雇して、身辺の世活を美少年や雛僧にさせたと云ふことは、世に隠れもなき事実で、光瑞氏の性的生活の普通でないことは明かである。