女角力

近来女性の間にも運動競技が盛んに行はれて、ランニングに、野球に、水泳に有髯男子を凌ぐ許りの女流競技辺動家を踵出し、その中にも人見絹枝嬢といふやうな国際的スポーツマンを出だすが如き有様ともなつたが、併し学生角力の向ふを張つて角技を闘はす女流運動家は未だに現はれない。女子が惜しげもなく肉づき豊かな雪白の肌膚を曝らし、褌一つになつて角力をとることは風紀上の顧慮から許されないでもあらうが、併し相撲史の上から見ると、角力の起源は女角力である。普通では野見宿禰が当麻蹴速と角闘してこを蹴殺したのを角力の起源としてゐるが、併しこれは間違ひで、『日本紀』に、『二人相対に立ちて各足を挙げて相蹴る。即ち当麻蹴速の脇骨を蹴折り、亦其腰を蹈折りて之を殺す』と明記してあるのを見れば、今日の角力のやうに敵手を倒すのでなく、蹴り合ひをする一種の力競べで、言はゞ足闘とも称して可なるものであるから以て今日の角力の起源とすることが出来ない。処が『日本紀』の雄略天皇の章に、宮中の妥女を集めて裸体にし、犢鼻褌を締めさせて相撲を取らせたといふ記事がある。これが即ち我国の古史に見ゑる角力の最初であつて、前記の如くに蹴り合ひでなく、双方其真の裸になり犢鼻褌に腰を固めて相手を倒すべく力闘したのである。さりながら事実上にては雄略天皇の御宇に至て始めて角力の行はれたものとは想はれない。上古時代の古墳の中から発掘せられる土偶に往々二人の男子が組み討して闘つてゐる図模様の描かれてあるのを見ると、角闘の技は夙に上古時代より行はれたもので、雄略天皇が宮女たる采女に角力をお取らせになつたのは特殊の御慰みとして行はせられた変例と解せねばならぬ。たゞ上古史に於ける記載の上から見ると、雄略天皇の時代に至て始めて今日の如き角力が起り、而もそれが宮女によつて行はれたやうに思はれるが、併し実際はさうでなく、雄略天皇時代前よりも夙に角力が男子間に行はれてゐたので、それに倣って宮女にも角力を取らせたと云ふ変態的の遊戯が思ひつかれたのであらう。併し相撲史の上に於には、雄略天皇の時代に宮女によつて行はれた角力に関する『日本紀』の記事を以て今日の角力の最初の文献としなければならない。

角力は囚より男子独特の闘技であつて、遂には之を耶業とする力士即ち角力取も出るやうになつたが、併し豊太閣全盛時代の文禄年代に出た『義残後覚』に『比丘尼相撲の事』と題せる記事を見ると、二十歳許りの美しい熊野の比丘尼が勧進相撲り場に現はれて自ら進んで相撲を申し込み悉く専業の力士を難なく倒して関を取つたといふ記事もあるから、当時に於ても角力の心得があり又之に造詣せる女子もあつたに違ひない。女角力が特殊の遊戯として行はれたことは、稗史野乗に記する処を見ても明かで、例へば貞享版の『色里三所世帯』の中に金持ちの若隠居浮世外右衛門が二十四人の妾に角力を取らせて、打ち興ずる有様を描いて『広庭に四本柱紅の絹を捲き立てゝ土俵に小布団の數をならべ、加茂川のしやね砂を篩はせて撒かせ、美女に男のすなる緞子の二重廻しの下帯をさせいやながら丸裸にして西東の方屋にならべ置きぬ。(中略)先づ東の方大関にはちゞみ髮のおけん、今年二十一歳、如何なる人にても揚げて落して四手の獲ものなり。関脇は素顔の小雪、これは少し首筋自慢、それから引続いて、大津の十七小さん、二皮目のおつや、物腰よしのお舟、桜色の音羽、後ろ帯のおかめ、歩み上手のお半、殿中の宇治、琴好い妓のお松、我れ劣らじと力足踏めば、又西の方より大関の比丘尼落しのるり、その年三十一なれども見た所二十二三、隠れもなき手取りもの、恥し気去つて躍り出づれば、関脇に指切りの白玉、これは諸分知りの女なり。これに押ならびて誓紙破りのお沢、男にくみのおさが、後家姿のおしまうづらのお秋、飛び上りのおりん、暇状のおくに、いづれも四十八手の外によい手を知りたる女、力を入れずして男を投げることを得たり。されど今日は互ひに女中立ち合のほんの相撲。行司は且那殿、微塵勝負はひいきなしに分けられ』云々とある。又た『好色一代男』にも、楽阿弥といふ金持の隠居が、都より数多の美女を取り寄せて『誰れ恐るゝもなく、或時は裸相撲、すゞしの腰絹をさせて、白き肌、黒きとこるまでも見すかして不礼講のありさま云々』とあり、又大近松晩年の作なる『関八州繋駒』にも、源頼信の奥方の医病を慰めるために、奥女中が相撲を取る個所があつて『見ず〃心を引立つるは相撲々々、先づお座敷に四本柱、くゝり枕をならべ、土俵をつき、四人の真裸で二人づゝ西東へ立ち別れて、大関、腰元衆の中で関脇小結を選み、残りの女中は皆前ずまふ、肌のものは男の通り、鈍子繻珍の二重廻り云々』とある。此等の小説や戯曲に描かれてある女角力にヒントを得たのか如何うかは分らぬが、田沼山城守意知は、築地の下屋敷で公退の後には奥女中に角力をとらせ勝つたものには縮緬一巻を褒美としてあたへた。大広間には黒天鵞絨の蒲団をしきつめ、その上に土俵を書き、奥女中一同を裸体にして角力をとらせた。平賀源内が『丸本長枕褥合戦』といふ猥本を作つて意知に贈呈したのも、此様な後房の様子を看破したからであつたと伝へられてゐる。『近松の関八州繋駒』に描ける奥女中の角力は固より作り事だが、田沼意知が屡々自邸の後房で奥女中に角力をとらせて見物したのは事実である。

要するに女角力は金持や大名等の変態的の慰みに行はせたもので、上古の雄略天皇の時代に宮女たる妥女に角力を取らしめたのと趣きを一にするものであるがさて角力を専業とする女力士は何時頃から現はれたかといふに、その起りは明白でないが、江戸時代の延享二年に初めて両国に女角力が興行せられ『男より勝ち色ありや女郎花』などゝ俳句も出でた位で、大阪にては明和六年難波新地に始めて興行された。明和八年版『世間化物気質』に力業を習つた女郎が難波新地の女角力興行に抱へられ板額といへる関取になつて三十日間百五十両にて先き金を取つたとある記事に徴すると当時の世好に投じて大に人気を博したらしい。されば安永九年版の黄表紙『空音本調子』に『不動尊の御告げにまかせ、女相撲を始めければ大に流行り、思ひよらざる金儲け云々』とあつて、土俵の上で女の角力を取つてゐる書を掲げてある。延享より明和、天明にかけて盛んに行はれた証拠には、当時の黄表紙に女角力を材料に取つた者の尠く無いのに徴しても分る。

されど女角力といつても、女と女とが力闘するのでは無く、女と盲目の男とが角力を取るといふ滑稽、猥褻な者も多かつた。盲人同志の角力は『浪華見世物年鑑』に依る明和六年に大阪の難波新地に始めて興行せられ、江戸でも浅草や両国で興行されたのは『続談海』の記事に明かであつて、盲人角力の流行したのは盲人が探り手に取り組む身振りや態度の滑稽味のためであつたが、更に一歩を進めて女と盲人とを取り組ませたら、相手が視力のない不具者だけに一層可笑しから うといふ興行師の思ひつきから、女力士と盲人との相撲の興行となつたのである。此様な滑稽猥褻の角力は明和六年頃より江戸に行はれ、浅草寺の境内に興行されたのを最初として文政時代に至るまで行はれたが、その中にも文政九年の三月、上野山下に催うされたものは大に人気を喚び毎日大入りつゞきの盛況であつた。女力士と盲男とが東西各十一名に分れての力くらべでその名乗りも、肓力士には向ふ見ず、杖ヶ嶽、佐栗手、杖の音、うば玉、もみおろしといふやうな滑稽な名を附し、又は女力士にも、玉の越、乳賀張、姥ヶ里、腹やぐら、色気島、穴ヶ淵、美人草といふがごとき可笑しな名乗りを附けた。もとより淫売婦や乳母上りの醜婦のみであつたが、久々の興行であつたので大入りをつゞけたのであつたが、或る日風紀上看過することの出来ない一大椿事の突然起つたがため、興行停止を命ぜられた。文政版『肓と女相撲引札』所載の挿書を見ると島田髷や丸髷に結つた女力士と盲男の坊主力士とが、いづれも化粧まわしを締めた裸体姿で東西に別れて居並び、中央の土俵では派手な着物を装へる若い女が行司となつて、これから取組みにかゝらうとする光景を描いてある。女と男との相撲は風俗壞乱とあつて禁止となつたがため、嘉永六年の春から大阪の難波新地で興行した女角力は全然女力士ばかりで、それ迄は島田髷や丸髷に結つてゐたのを男髷に結びかへ、甚九節の手踊をもやつた。明治九年の末、女角力の興行は禁止となつたが、十六年頃より再興して二十三、四年の頃までは可なり流行した。その中、二十三年十一月両国回向院で興行した女力士の中には、身長六尺二寸体重二十一貫三百目といふ大関もあつた。余技としては二十七貫の土俵を前歯でくはへ左右の手に四斗俵を提げて土俵を往来した。

女子体育の必要が高唱され、女性間に運動競技の奨励せらるゝ今日でも独り相撲だけは風紀上行ふことの出来ない処に女性の弱味があり女子のスポーツに欠陥がある。